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真宗で味わう『日々是好日』

み仏さまの光明に護られて送る一日一日は浄土に向かっての旅です。二度とない今日という一日が尊く光輝いています。いろいろな問題や悩みもやってきますが,それも仏様に護られている上での出来事ですから心の底には安心感があります。一日一日を大切に生きながら折々に感じたことを書き留めていきたいと思います。


家づくりを通して

  1. 2016/06/25(土) 13:27:48_
  2. 日記
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 今年1月にマイホームが完成した。完成するまでにはいろいろなことがあった。まずは家の構想を練る段階からスタートした。何回何十回と用紙に間取りを書いては修正することの繰り返しが続いた。そんな姿を見ていた妻も,最初は乗り気ではなかったもののいつの間にか新居を建てることに賛同してくれるようになった。妻と一緒にモデルハウス見学にもよく出かけた。内覧会のチラシがあると暇を見つけて出かけた。いろいろな住宅を見学し,我が家に取り入れたいものを選んだ。業者が決まり,提示してくれた間取り図,外観図をまたさらに何回何十回と赤ペンで修正した。修正を繰り返していく中で,いろいろな課題が解決され,次第に自分の理想に近い住居になっていった。この家は自分だけの家ではなく,帰ってくる我が子の家でもある。子どもにとって不足のない満足できる家にしたいと思ってさらに修正を重ねた。契約のサインを交わしてからも,工事が始まってからも設計の部分修正は続いた。家の内部構造はもちろん外壁のタイルや色の選択にも時間をかけた。とにかく構想段階から設計,工事に至るまで1つ1つのことにこだわりを持って作業を進めた。家の隅々まで神経を張り巡らしてできたマイホームである。家を建てることは本当に一大事業であることを身を持って知らされた。業者選び,引っ越し作業,旧家屋の解体に始まり,新家屋の設計施工を通して,本当に数多くの業者と顔を合わせ,打ち合わせをしてきた。大変な数の人々の受け持ちのおかげで1軒の家が立つことを実感した。また,家を建てることは大変な作業で,労苦が重なり命を落とすこともあると聞くが本当にその通りだと思った。
 今度の家づくりを通して,阿弥陀様の心に触れる有り難いご縁になった。阿弥陀様は,お浄土の設計だけで五劫もの長い間思惟に思惟せられた。修正に修正を加えられ,他の浄土に負けない最高のお浄土にしようとされた。その上さらに命を削られての兆歳永劫のご修行,我々の想像も及ばないご苦労により建立されたお浄土と聞いている。お浄土を家に例えるのは失礼だが,その家は一体誰のために建てられたのか。ご自分のことは抜きにして帰ってくる我が子のためだけではなかったか。我が子とは一切衆生であるが同時にこの私自身のことでもある。
 私のためにそこまでして建てて下さった家に,私が帰らなかったら,住まなかったら意味のないものになってしまうではないか。「早く帰って来いよー」と呼んでくださっていることを聞かせていただいたら「ハイ。ありがとうございます。もったいのうございます。」と素直に返事して帰らせてもらう以外に何かあるだろうか。お浄土に住まわせてもらうことを今から楽しみにしてお念仏させてもらうだけである。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

弥陀の名号(加茂仰順師)より18

  1. 2016/06/18(土) 22:22:39_
  2. 仏法
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 平生業成とは,いま,ここで,ということです。即ち私の助かる場所は,いま,ここをのけたら外にはないというのが平生業成のこころです。わが胸が大丈夫になったから助かるのではない。安心したから助かるのではない。こちらがまちがいないとならねばさびしい私です。しかしみなそういうことに用事がなかったのです。信じたで,聞いたでと腰をおろすのは,六字を眺めものにしているのです。わが胸を当てにするのが自力心です。こちらには用事がなかったのです。聞いて助かろうとするのが私ですが,それは六字がお留守です。
 尼崎のお同行のお母さんは,末代無智の御文章を何遍も拝読してみて,気が付いたことには,御文章のどのお言葉もみな私に出来ないことばかりでした。私にできないことばかりをお示し下さるということは,裏側から言えば,全部が全部みな如来のおはたらきであることを知らせんがためのものでしたと言うて泣いていられたということです。
 たずねかえしのできん法,ことわりのきかん法でありながら,ことわりずめの私です。出る息,入るを待たないとはお聞かせいただいているのに何ともないのがこいつです。法蔵菩薩の兆載永劫のご苦労は誰のためだったのか…。聞いているようでちっとも聞いていない。今死んだらどうなるか。信じるまでは助からんが,信じたら助かると思っているのがこいつです。この心は法を聞くきっかけにはなりましょうが,大きな間違いです。
 実際は助ける法が先に来ていたのです。こちらのきづかいは手遅れです。こちらが負けです。その手遅れの法,その負けの法に遇わされるのです。こちらが確かなものになることのいらない法に遇うのです。先手のお助けとはこのことです。聞いたこと,信じたことが間に合うように思うてきばっていたこいつです。それが手を出して聞いていたのでした。背中を向けていたのです。しかしこちらが手遅れです。手遅れならば,どれほどやっても無駄です。その法が耳から入り,出るところがないから口から出るのです。それが御名を呼ぶ称名です。
 

弥陀の名号(加茂仰順師)より17

  1. 2016/05/27(金) 22:09:51_
  2. 未分類
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 水に全身を打ち負かしてさえおれば,水の力で独り浮きできる。それを,沈んではならぬ,浮かばねばならんと思い,手足をばたばたさせるから,かえって沈むのである。どうもせずに,水にまかしていると,ひとりでに水の力で浮くのだよ,水の上にしずかに横たわってみせてくれるのです。水に浮かぼうとあせると,かえって沈み,水にまかすところにひとりでに浮かびます。浮かぼうとあせるところに水に反対し,水の力を得ることができずに沈み,水にまかすところに,水の力全体が,わがものとなり,水の力全体がはたらいて浮かされるものです。
 これと同じことで,如来のお助けを求め,助からんとはからうところには,却ってお助けの全相が見失われ,お助けの外に出てしまいます。ただすなおにお助けのままに打ちまかせたものは,お助けの全相にお遇いさせられ,お助けの内に生活し得られるのです。蓮如上人は,「凡夫の身にて,後生助かることは,ただ易きとばかり思えり。難中之難とあれば,かたくおこし難き信なれども,仏智より易く成就したまうことなり。往生ほどの一大事,凡夫のはからうべきにあらずといえり」と仰せられてあります。これからいたしましても,往生ほどの一大事は,凡夫のはからうべきことでないことを,難中の難と示されたものです。
 往生ほどの一大事は,凡夫においては難中の難であるが,仏智によって得やすく成就されてありますから,あら心得やすの安心や,あら往きやすの浄土やであるのです。宗祖の信巻別序には,「しかるに常没の凡愚流転の郡生,無上妙果の成じ難きにはあらず,真実の信楽,まことに獲ること難し」と獲信の難いことを挙げ,その理由に「何を以てのゆえに,いまし如来加威力に由るが故なり,ひろく大悲広慧の力によって,獲る信を凡夫の計らいによって難しくしておることをいましめらるのです。

弥陀の名号(加茂仰順師)より16

  1. 2016/05/25(水) 19:48:33_
  2. 仏法
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 如来様はこの私を救わねば生きてゆけないのです。それですから,お浄土にあられる如来様が私の身の中へ飛び込んできて,私がお浄土まで生きぬくいのちとなって下さるのがお念仏です。浄土にある親様が,この私の受け取りやすい,称え易いお念仏となって,私の人生に入り込まれてきます。そしてそれがお浄土に生まれるのです。心には信心となり,口には念仏となり,姿には拝む手となり,ざんきの姿となって,私を浄土まで生き抜かせる力が如来様であり,それがお念仏であります。
 このゆえに,南無阿弥陀仏に救われるということは,お浄土の如来が,私が浄土へ参る姿となって,信心となって,私の身の中に生きて働くすがたがお念仏なのです。だからこのお念仏は,私の願いや祈りではなく,私を救おうとする如来様が,私の身の中に,私のお浄土まで生き抜くいのちとなって,生きて働くのがお念仏です。
 教えは山ほどあっても,またそれが尊いものであっても,この私の本当に救われる教えというのはこれよりほかにはありません。相対的な世界の私の身の中に,絶対的な如来の力があらわれてきていて下さるのです。浅ましい私のこの身の中へ,尊い如来様がとびこんできて救うて下さるのです。~要するにこのお念仏は如来のあらわれたすがたです。これを人間の中からのあらわれであると思うたのは大きな間違いで,拝む手も,称える口も,信ずる心も,これみな名号のはたらきです。如来様はどこにいますのかといえば,この称えるお念仏が如来様です。

弥陀の名号(加茂仰順師)より15

  1. 2016/04/24(日) 15:23:44_
  2. 仏法
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 如来様は,この私を救わねば生きてゆけないのです。それですから,お浄土にあられる如来様が,私の身の中へとびこんできて,私がお浄土まで生きぬくいのちとなって下さるのがお念仏です。浄土にある親様が,この私のうけとりやすい,称え易いお念仏となって,私の人生に入り込まれてきます。そしてそれがお浄土に生まれるのです。心には信心となり,口には念仏となり,姿には拝む手となり,ざんきの姿となって,私を浄土まで生き抜かせる力が如来様であり,それがお念仏であります。
 このゆえに,南無阿弥陀仏に救われるということは,お浄土の如来が,私が浄土へ参る姿となって,信心となって,私の身の中に生きてはたらくすがたがお念仏なのであります。だから,このお念仏は,私の願いや祈りではなく,私を救おうとする如来様が,私の身の中に,私のお浄土まで生きぬくいのちとなって,生きてはたらくのがお念仏です。教えは山ほどあっても,またそれが尊いものであっても,この私の本当に救われる教えというのはこれよりほかにはありません。相対的な世界の私の身の中に,絶対的な如来の力があらわれてきていて下さるのです。浅ましい私のこの身の中へ,尊い如来様がとびこんできて救うてくださるのです。その救いも,手品のようなことではなく,因果の法則によって,お浄土まで生き抜くいのちとなって,如来様があらわれて下さるのです。お浄土まで生き抜くいのちとなって,生きてはたらいて下さるそれがお念仏です。要するにこのお念仏は如来のあらわれたすがたです。これを人間の中からのあらわれであると思うたのは大きな間違いで,拝む手も,称える口も,信ずる心も,これみな名号のはたらきです。如来はどこにいますのかと云えば,この称えるお念仏が如来様です。またこの信心が如来様です。これを示したのが如来御回向ということであります。

道と約束があれば

  1. 2016/03/22(火) 22:42:21_
  2. 未分類
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昨日見ていたテレビドラマ。「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」というタイトルの番組。 北海道まで彼女にトラックで会いに来た彼の言葉が印象的だった。彼女の「また会えるかな」の言葉に「道と約束があればきっと会える」 そうだよね。人が友達と会うとき,何時にどこそこでと約束をするよね。その約束を交わしているから「会える」わけだよね。弥陀の本願も私との約束。その約束の言葉を受け入れた者は,約束を交わしていることと同じ。テレビの彼は北海道までトラックで会いに行ったが,お浄土へは「二河百道」という道がある。ちゃんと道と約束があるではないか。「道と約束があれば会える」はやはり真実だね。テレビではもう一つ何か言っていたけど聞き漏らしてしまった。道と約束ともう一つ。何だろう。「時間」だったかな。それとも…。

弥陀の名号(加茂仰順師)より14

  1. 2016/03/20(日) 13:40:18_
  2. 仏法
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御名号を聞くというのは,御名号の本を聞くのです。ここが大事なところです。親鸞聖人が,人よりもすぐれて喜ばれたのもここです。多く人は御名号を聞いて,その御名号を喜んでいますが,親鸞聖人はその御名号の徳,無量寿仏の威神功徳の不可思議なることの讃嘆を聞いて,その讃嘆のうちに,法蔵因位の本願を聞かれたのです。いわゆる仏願の生起本末を聞くのです。出来上がったお徳ばかりを聞いておるのではなく,その出来上がったお徳の讃嘆を聞いて,その徳を立てあげられた弥陀の本願の本を聞くのです。
 親鸞聖人には,何を聞かれてもそのものの底の底までが聞こえるのです。諸有衆生聞かれても,その弥陀の諸有衆生と呼びかけられる心の底の底を聞かれるのです。ああこの私が呼ばれるのだ。もう私は弥陀の心の底におるのだ。私が目当てなのだと聞かれるのです。名号の讃嘆を聞かれても,その御名号の弥陀のお徳は,ただの徳ではない,法蔵因位の本願から生まれてきたお徳である。その本願は遠いところにある本願ではない。この私がもとになって生まれた本願である。その本願から,この南無阿弥陀仏のお徳が私のものとして成就したのである。だから弥陀のお徳がもとの本願から生まれ出てくる。その本願が私の胸の中に聞き得られたとき,弥陀のお徳が私の徳としてあらわれてくるのであるといただかれたのです。ここに信心歓喜があります。

弥陀の名号(加茂仰順師)より13

  1. 2016/02/26(金) 22:41:20_
  2. 仏法
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遠いところから鐘の音が聞こえてくるように,如来のお助けも遠方から鳴り響いてくるように思いますから,今日は信心が来るかしら,明日は信心が来るかしらと思うようになるのです。こうしたあやまりにはまっていては,何年たってもお助けはわかりません。蓮如上人が「木像よりは絵像,絵像よりは名号」と仰せられたのはこのあやまりに陥らせないためのお心づかいであったのです。
 つまり木像や絵像になると,どうしても向こうに置いて見ます。また名号だと字に書けば向こうに置いて見ますが,口にかけたら十方流布行で,どこにでもゆきわたっていますから,向こうに置くのではない,私の耳のそばまで来ているのであります。床の置物のように向こうに置くものですから,取りにゆこうとしたり,とりこもうとしたりするのです。私の上に来ているということになると,取りにゆく必要もなく,引っ張り込む必要もなくなるわけです。それゆえに,如来のお助けは昨日は来てなかったが,今日は来ているとか,今朝はきてなかったが,いまは来たとかいうようなものではありません。十劫の暁天のその時から私の上に来ずめであります。その「来ておるぞよ」と聞かして下さる法話には,聞かす時と聞かさぬ時との区別がありますが,如来のはたらきにはその区別はありません。それで名号のいわれを聞けと仰せられるのです。
 名号は尽十方無碍光如来の名号であります。尽十方無碍光如来と申すのは,如来のみはたらきは十方世界に充ち満ちて,いかなる肉親の中にも,いかなる煩悩の中にも一杯になっているというのであります。これが名号のいわれであります。それでご法を聞くのは,始終来ずめであることを知らせて頂くのであります。このお知らせによって,いま来てくださるのではありません。また向こうから来て下さるのでも,また求めにゆかねばならないのでもありません。
 ただいまここに居ながら,手を伸ばすことも,足を出すこともいりません。このままでお助けのはたらきの中に置いてもろうているのであると,知らせて頂くのです。

弥陀の名号(加茂仰順師)より12

  1. 2016/01/31(日) 13:35:42_
  2. 仏法
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 如実の信心は自分の胸に合わせて領解や概念をつくることではありません。「よろこび」や「さんげ」をこしらえることでもなく,「いよいよこれなら大丈夫」とのさかい目をひくことでもありません。まして,「このまま助かるとおっしゃるならば,このまま助かるであろう」との推測をかためることでもありません。ただ仏祖のみ教えを聞き,そのみ教えである如来の本願の仰せを聞くのです。これによって如来御回向の御名のいわれが聞き得られたならば,自分の心をながめて「これでよい」とか,「これではまだいけない」などと,計ろうてもおられません。また,いつ救われたか,どうかの覚えがあるか,ないかをしらべたり,さがしてもいられません。この私は,今まで聞かなかった如来の仰せを聞くことができた,今まで知らなかった如来のおまことを頂くことができたというほかはなく,ただ如来のお助けに助けられてゆくのであります。如来のお助けに計らわれてゆくのです。この自分としては,何としてもこの身が間違いなく助かると思う心になろうとします。しかしそれになれない身であることを知らずに,なれることのように思いますが,これが無始以来の自力心です。このたびその心の執心の止まないことがふびんさに,この心は万号の仇である教えられてあるのです。それ故に,助かると思う心をまってではない。しらべる必要もない。如来の本願に助けられることのお聞かせを頂けば,助かるとなれたので助かるのではなく,助からないと見抜かれたみ親が,助けると仰せられるおまことを聞き得させて頂いて,お念仏させて頂くばかりであります。いま無常を背負っているこの私が,お念仏申させて頂くのです。

弥陀の名号(加茂仰順師)より11

  1. 2015/12/31(木) 22:55:31_
  2. 仏法
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堕ちると思うても,思わなくても堕ちることは必定です。ところが,有り難いことには,堕ちるより外ないこの身が如来の正客であると仰せられるのでありますから,堕ちるこの身のなりを助けるぞよのおまことが聞こえたところに,安心となります。ところがまた,その安心をしたい心からなやむ場合がありますが,その心持を打ち割ってみれば,安心できたらお助けにあずかりうるという気分があるわけです。安心できたらお助けと思う心は,帯をしめて,着物を着るようなもので,順序を誤っているのです。私たちは着物を着て帯をしめるのですから,弥陀のお助けが聞こえたところに,安心となるのです。さらに言えば,お助けに安心させてもらうのです。安心したい,落ち着きたい,よろこびたいの思いが先に立つのではなく,お取り次によってお助けをお助けと聞かしてもらうところに,安心したいの思いには用事がなくなって,およびごえのままに安心させられ,落ち着かせてもらうのです。ここのところをおかる同行は,「如来の仰せを聞いてみりゃ,聞くより先のお助けよ。何の用事もさらにない。用事なければ聞くばかり」と述べております。


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プロフィール

アグリ長八

Author:アグリ長八
私の家は先祖代々農業を営んできた。私もまた受け継いだ田畑を守り、地域の先輩や仲間と共に米作りに勤しんでいる。曽祖父の名前が長八だったからであろう、物心ついた時から「ちょうはっつぁん」と呼ばれていたのを覚えている。我が家の仏壇には手垢のついたお聖教(正信偈や御文章)がたくさんある。仏縁の深い家に生まれたことをありがたく思っている。ふとしたきっかけでお寺参りをするようになり、仏様のみ教えによってお育てを頂いている。お育てにあずかりながら日々心の中に湧き出てくる私なりの味わいを記していきたい。

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