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真宗で味わう『日々是好日』

み仏さまの光明に護られて送る一日一日は浄土に向かっての旅です。二度とない今日という一日が尊く光輝いています。いろいろな問題や悩みもやってきますが,それも仏様に護られている上での出来事ですから心の底には安心感があります。一日一日を大切に生きながら折々に感じたことを書き留めていきたいと思います。


弥陀の名号(加茂仰順師)より3

  1. 2015/02/28(土) 21:59:17_
  2. 未分類
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  真実の行とは,親鸞聖人によって「大行というは無碍光如来のみ名を称するなり」と仰せられました。即ち弥陀は十劫正覚の全真実を南無阿弥陀仏の御名にうちこめ給うて,これを称名のかたちであらわされてあります。その十劫正覚の全真実とは,因位から云えば五劫思惟の本願,兆載永劫の修行,果上から云えば仏身仏土の万徳であります。しかもこれを名号と仕上げて私たちにお与え下されるのであります。つまり先に申しますように大行は称名の形であらわされてはありますが,名号はじっとしているものではない。称名となって動いているものであるという思召しでありますから,大行のものがらはあくまでも名号それ自体であります。弥陀が久遠劫来のその志願を満たさしめ給うことは,実にこの名号大行の御はたらきによることであります。名号はいつも私たちの信となり,称名となって下さるのです。
 それゆえこの名号の信受せられた上は,口には称名となってあらわれてくださいます。このことを聖人は「真実の信心は必ず名号を具す。名号には必ずしも願力の信心を具せざるなり」と仰せられました。かくて私たちはここに永劫の親に遇い,その御心のうちに入ることができたのです。これを摂取不捨の益といいます。虚仮の求め心に渇ききったこの私が,如来真実の本願に浸され,永遠の志願を満足させていただくのです。
 母を持つ子は,母の心がたえず子どもの心へ流れ込むように,ひとたび弥陀の真実にうちあかされれば,常恒不断のおあたえの名号を信受しつつ,歩々光明の門に進ませていただき,この穢身を捨てるとき,まさしく弥陀の世界に生まれ,弥陀のさとりを得,そして十方を摂化し給う弥陀の御はたらきに融摂せしめられてゆくのです。これが真実の証(さとり)であります。(P53-54)
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弥陀の名号(加茂仰順師)より2

  1. 2015/02/22(日) 20:29:09_
  2. 仏法
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名号はよびごえですから,聞によって私にあらわれてくださるのです。つまり消障除疑の名号ですから,聞の功をみとめる必要もなく,また聞いて考えて信ずるのでもありません。お助け下さる先手のお呼び声を聞くのみであるということになります。
この「聞」のところが案外とりちがえられやすいものですから,ここは念を入れて聞かせてもらわねばなりません。
 それは,仰せを聞いて私の心がまちがいのないようになろうとするのではありません。本当のことは,まちがいのないお助けの聞こえたのが真宗の安心であります。宗祖のおさとしからしますと,信心は無疑であるとされています。これが最もはっきりとしたお示しです。摂取不捨というは,にぐるものをおわいとるなりとあるように,み親のみ心もしらず,にげている私をつかんで,浄土へ連れて行って下さる如来が弥陀です。また「一心に」とあっても,私がしてゆく一心ではありません。願力のおかげで,往生させていただくお助けのいただかれた決定の信にさせてもらうのがその一心の有様です。
 どこまでも真宗は,先手のお助けに助けられてゆくばかりであります。わが心を何とか成らそうとするのではありません。わが心に信心ができるまで聞けよではありません。なりたいがなれない。なれないから一層となりたいというように,わが心仕上げてゆこうとする思いがすべて取り去られてまちがいのない弥陀のお助けを聞くばかりです。また私たちの知性を超えたものが弥陀法ですから,分かろうとして自分の知性の中へ入れるのでもありません。私の胸をかためるために,うき身をやつすのではありません。如来の手元にお助けが決定した。その決定の仰せを聞くのであります。これが真宗の安心であります。
(P36)

弥陀の名号(加茂仰順師)より

  1. 2015/02/07(土) 20:41:10_
  2. 仏法
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御名のいわれを聞くところに,信心歓喜の一念が起こって下さるのは,如来の真実心,決定心,大悲心がそのまま行者の信心となって下さるのです。「恋しやと思う心ぞ我ならず母の心の通い来るなり」です。とかく如来の思召を聞き得ずして「ただお助け下さるのである」と軽く思うていますが,それは如来のやるせない親心を知らないのです。だから本当のお助けがわからないのです。ひょっとするとお助けもやぶれてしまいます。
私たちは「他力とは如来の本願力なり」とか「帰命というは本願招喚の勅命なり」と仰せられるおこころを,よくよくいただかねばなりません。いつまでも迷い続けて,さとり得べくもないところのこの心を知るは,如来の御慈悲の心であるのです。如来の見抜き給うた私の姿を,引き受けると仰せられる親様です。迷い続ける私の姿を知りぬいて,その知りぬいたままの姿を引き受けると仰せれれる親心とは,どうした底ぬけ徹底した親心でしょうか。子供のおちつきは親の慈悲です。親のぜひともに育て上げねばおかぬとの決心が,そのまま子供の安心であります。~蓮如上人の「後生たすけたまへとたのめ」の仰せは,安心を言いあらわすについてのおんずまりのお言葉であります。言えばいろいろと言えもしましょうが,親様のご親切が聞こえたその腹一杯を,「雑行すてて後生たすけたまへとたのむ」とおさとし下されたのあるといただけば,まことにこの一語は言い尽くされたおさとしと申さねばなりません。(P30)


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プロフィール

アグリ長八

Author:アグリ長八
私の家は先祖代々農業を営んできた。私もまた受け継いだ田畑を守り、地域の先輩や仲間と共に米作りに勤しんでいる。曽祖父の名前が長八だったからであろう、物心ついた時から「ちょうはっつぁん」と呼ばれていたのを覚えている。我が家の仏壇には手垢のついたお聖教(正信偈や御文章)がたくさんある。仏縁の深い家に生まれたことをありがたく思っている。ふとしたきっかけでお寺参りをするようになり、仏様のみ教えによってお育てを頂いている。お育てにあずかりながら日々心の中に湧き出てくる私なりの味わいを記していきたい。

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