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真宗で味わう『日々是好日』

み仏さまの光明に護られて送る一日一日は浄土に向かっての旅です。二度とない今日という一日が尊く光輝いています。いろいろな問題や悩みもやってきますが,それも仏様に護られている上での出来事ですから心の底には安心感があります。一日一日を大切に生きながら折々に感じたことを書き留めていきたいと思います。


名号不思議の信心(加茂仰順師)より3

  1. 2017/02/26(日) 11:53:17_
  2. 仏法
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~自力根性を先立ててかかっても,なかなかもって他力の大信心を得られるものではない。少しわかって合点がいったとて,お浄土へは影もささない。まして幾世も幾世も罪を重ね,悪ばかり心にまかせてつくり通してきたこの身である。三悪道は当然のことである。またわが身にもそのように得心している悪人ではないか。おそろしいとも,あさましいとも,わが身で,わが身罪人なり,地獄へおちるという札をつけるよりほかない罪悪の大悪人は,そなたや私のことである。
 それがいま,善知識のおさとしを聞かせて頂いてみれば,そのあさましいいたづら者の助かる手がかりはどこにもない。貧乏人がお金一円をも持たずに年越しをしようというがごとくに,とても地獄が住家のあさましいそなたである。「その根性のなりで,助けてやるからわれをたのめ」と,阿弥陀如来の方からお招き下さる本願の勅命,南無阿弥陀仏のおいわれを,善知識の確かなたしかなおさとしで,その助けてやるまことのご親切なるおよび声を,そのまま,増しもせず,へらしもせず,阿弥陀如来のお胸のお慈悲のありだけ,裏もなく,表もなく,助けて下されるまちがいない本願を,そっくりおとりつぎ下されるのを,よくよく心を静めて聞けば,たのむものを助けるとあるは,阿弥陀如来の方から,われをたのめ,必ず助けるとある,そのおよび声をまうけに受けるを,たのむとは申すのである。こちらからたのむことではない。助けるとある本願招喚のおよび声をたのみに思うをたのむと申すのである。ここをよく聞き得てくれよ。
~聞かせていただいてみればみるほど,いよいよ助かる縁のないものを,阿弥陀如来なればこそと,思い知らされたときの思いは,後生助け候えの思いよりほかはない。ここを「後生御助け候えとひしとたのまん衆生」と述べてある。外に助けてもらう仏はない。救うてもらう手がかりはない。ただ阿弥陀如来ばかりと,聞き得させていただいたとき,ただ如来にすがるより外の思いはない。ここを「阿弥陀如来の御袖にひしとすがり参らせて」と述べてある。悪い心が起ころうが,妄念の煩悩が起ころうが,こういう者をこの根性のなりでお助けとは,何とした不思議のご本願やらと,疑い晴れ,お慈悲のお手元へかえり,称名念仏しているのを「仏にまかせ参らせて」とある。
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名号不思議の信心(加茂仰順師)より2

  1. 2016/12/26(月) 21:02:49_
  2. 仏法
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 お浄土参りがはっきりなれぬことに困っているであろうが,この弥陀はその機一つが涙のたね。なれぬその機はそちが手で始末のつかぬことを,法蔵因位の時に見抜いて立てた本願じゃで,そのなれぬ機は弥陀がいま受け取って始末をつけて,助けるためにできたこの弥陀じゃぞよ。その機を受け取ることを思案したのが五劫の間,受け取るもとでの願行は兆歳不可思議永劫かかって作りあげたのじゃ。弥陀が正覚取ったのは,我が身のたのしむためではない。そちがいま困っているその機を引き受けて助くるためであるからは,その機がよくなる位なら,五劫の思案も水の泡,永劫の修行も無駄骨折り,その機一つが受け取りたいばかりに,十劫このかた今日まで座るひまなく立ちづめで待ち通しに待っているゆえ,その後生の心配は弥陀に渡して,そなたの方は往ける往けぬの世話は止めよ。いま弥陀が引き受けて,正覚の命がけでも落としはしない。もしや落としたらそなた一人と思うなよ,たとい炎の中までも付き添うてはなれはせぬほどに,はなれぬ親をあてにせよ。付き添う弥陀を力にせよ。これがよびごえ。この如来の仰せを聞かしてもろうてみれば,まるで方角ちがいでありました。
 いままでは,お浄土参りがはっきりなれねば,とても助けては下さるまい。なれぬのはまだ聞こえぬのじゃろうと,一生懸命聞いても聞いてもなれません。聞けば聞くほどなれませんので,私には宿善が無いのじゃろうかと心配していましたが,なれぬこの機を受け持つ親様がましますのであれば,こんな有り難いことはありません。この機を親様が受持ってお助け下さるならば,今からはこの私の心がうんと言おうが言うまいが,心配はいりません。自分でゆく浄土ではないから,この機にはさらに用事なしです。それではお浄土はどうするか。それはあなたにおまかせしました。まかせたらお浄土参りはどうなるか。それは私の知ったことではありません。やろうやるまいはあなたのおはからい。私の力の及ばぬことが知れましたが,私の心の安心場所はどこに坐りをつけますか。それはいつも付き添う親に生かされるばかりです。お母ちゃんと言うほかはありません。親様が付き添うて離れて下さらぬのであれば,お浄土参りは大丈夫と,すぐに往生の安心が出てきて喜ばれるのであります。

●この私の名前を直に呼んで,話しかけてくださるお言葉をそのまま聞かせてもらったら,ようこそようこそしかありません。
  南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。


名号不思議の信心(加茂仰順師)より1

  1. 2016/11/26(土) 19:37:53_
  2. 仏法
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 阿弥陀如来はいま助かることに決めて下されても,この世の体がある間は,仏にはなれません。いまお浄土に参ることに決まったから,ついでにこの体もいまお浄土に参らせて仏にすると言われたら何とするか。お浄土参りはしばらく待ってくださいと逃げ出しはせぬか。お浄土お浄土とは,口先ばかり言うことで,今となったらお浄土参りはいやなのが私達です。人間界よりお浄土が好きかきらいか。そんなことを知らない親ではない。いやなお浄土なら急いで来いとは云わぬ。好きな娑婆に,なるだけゆっくり逗留せよ。お浄土参りは人間の業報の尽きるまでは,いつまでも待ってやる。そしてそちが娑婆に滞在の間,毎日造る三毒の煩悩は往生のさまたげをさせぬように,この弥陀が付き添って護りずめに護って,三毒は起こるはしから無碍の光明を以て始末をつけてやるで何も心配せずと,ゆっくり逗留せよ。これが阿弥陀仏の四字のおこころであります。

食前食後の言葉

  1. 2016/10/29(土) 18:26:28_
  2. 仏法
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 3人の子供も就職や大学の関係で,他県に住んでいる。子どもが小さいときは,よく家族5人であちこち出かけたものだ。3人の子供の成長に関わり,見守りながら,一緒にそれぞれの人生を味わうことができた。親としての人生を楽しませてもらった。先は長いと思っていた子育ても過ぎてみればあっという間のことだった。今は大きな家に夫婦2人での生活。どの家庭もきっと同じようなコースをたどっていくのだろうな。でも子どもは大きくなってもやっぱり親と子。これからも親としての人生を楽しませてもらいたいと思っている。次は結婚,そして孫というふうに…。
 話は変わるが,最近「食事のことば」をつとめて話すよう心がけている。
食前 「多くのいのちとみなさまのおかげにより,このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜びありがたく頂きます。」
食後「尊いおめぐみをおいしく頂き,ますますご恩報謝につとめます。おかげでごちそうさまでした。」

母との会話

  1. 2016/09/26(月) 20:31:30_
  2. 仏法
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「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」 阿弥陀様が呼んでいる声やで。「心配するな。この弥陀がそなたをお浄土に連れていくのや」
「母ちゃん一人じゃない。阿弥陀様がいつも一緒についているよ」 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏って返事して」…。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」…「大丈夫やで。何も心配いらん。安心して。阿弥陀様は母ちゃんといつも一緒にいるよ。お浄土に連れていくって呼んでるよ」「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」…この阿弥陀様の声を聞いて。施設に入所している臨終間近の母を見舞う度,目も開かず食事も取らずただ息をしている母の耳元で,いつも話したことである。亡くなる2日前も同じように,母の耳に押し込むようにひたすらお念仏を称えた。眼球の動きがあった。うっすらと目を開けた瞬間があった。何かを話したい様子が感じられた。しかしそれが生きている母との最期の対面であった。耳はしっかりと聞こえていたと思う。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」の声を聞いて,阿弥陀様に抱かれてお浄土に往生されたことを願っている。阿弥陀様と母との関係だから,こちらには本当のことは分からない。ただ祈るしかない。願うしかない。しかし不思議と悪いところへ行っているような感じはしない。お浄土で再会できたらいいなと思う。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」…お念仏称えながら,また日々の生業に勤しんでる今日この頃である。

弥陀の名号(加茂仰順師)より20

  1. 2016/08/25(木) 21:38:40_
  2. 仏法
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自分の思索により,また自分の苦悶を積み重ねることによって弥陀のお救いに遇うのではなく,どこまでも宗祖や蓮師のおさとしを聞かしていただくところに,おさとしのままをすなおに領受させてもらい,弥陀のお救いにあずかるのであります。そのお救いは自分の過去を顧みて,こんなことを為した,あんなことも為したという反省に依り,自分は大罪であると自らの手で決めて救いを仰いでゆくのではありません。如来の仰せ,これの内容を大心海と申されてありますが,その仰せの中に喚ばれている私,それは極重悪人の姿です。その私を見抜かれた上の救い,その救いにいま救われるのです。「必ず引き受けた。安心せよ。」の名号のおさけびがいま宗祖や蓮師のおさとしによって聞かせられるまま,お聞かせの大悲で私の内部が充足するのです。無常の姿の私,いま死をかかえ,いま三悪道へ堕ちてゆくと知らされた私,それがいまのお救いをひしひしと聞かせられるのです。久遠以来の凡夫が,宗祖や蓮師のお言葉を聞くままが弥陀の仰せを聞くことであり,弥陀の仰せの聞こえるままが弥陀に召されて往くことです。いまの信は如来より与えられたのですから,浄土において涅槃のさとりを得るほどの価値あるものです。それゆえ今の生活の意義の深さが,「歩歩光明界裡中」と云いうる所以のものであります。

~真宗の信心は,長いこと聞いて出来るものではありません。真宗のお聞かせは,なりたいとか,なろうとかする自分の計らいの気持ちをすっかりとってもらうのです。聞いてわが心をかためてゆくのではありません。むしろ,かためようとする心が計らいですから,その計らいをとられて,如来のよび声をすなおに聞かせられる身にさせてもらうのです。私の心の中でお救いをつかもうとする気持ちを全部とってもらって,よび声をすなおにおいただきするのが救われたものの姿であります。
 これをつづめて申せば,如来の方から,この私へと,救いの法としての六字の法が,あらわれてくださるのです。この六字の法のよび声を,私が握ったのではなく,たしかめたのでもなく,その握ろうとする計らいの心がとりあげられて,すなおによび声の聞こえたのです。むしろ,すなおに聞こえたというときは,私の計らいが全部とられたときです。
 くれぐれも真宗は壱から拾まで名号のはたらき以外にはなにものもありませんから,その名号の内容,つまり,名号の功徳とはたらきについて,少しでも明らかにさせていただこうというのが,このたびの書物となったわけであります。この私のさわりを消し,うたがいを除いて下さるはたらきこそがご名号のはたらきであります。(完)

弥陀の名号(加茂仰順師)より19

  1. 2016/07/17(日) 17:12:28_
  2. 仏法
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 私が見た私ではなく,名号によって照らされている私。如来に見られた私だからごまかしがききません。こちらが負けです。お手上げです。こちらに用事がないのです。いつも呼び声の聞こえて下さる私であります。聞こえて下さる呼び声も,聞こえて下さる事実も,他力回向の内容です。如来によって見出されたこの私に,新しく名号が生きて下さるのです。仰せとなってあるということはこの意味です。知ったも分かったも切り落とされて,我が名を呼べ,我が名を聞けと動いたのが六字です。たのめ,たすけるの仰せはたのみ得ない私なるゆえに,それを見抜いてわれをたのむ身になさしめずにはおかない,絶対の親心のあらわれたものです。このはたらきに遇うたのが助けられたのであり,お念仏の身にならせていただいたのです。私たちが本格的に生きてゆき得る道は,このお念仏よりほかはありません。

弥陀の名号(加茂仰順師)より18

  1. 2016/06/18(土) 22:22:39_
  2. 仏法
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 平生業成とは,いま,ここで,ということです。即ち私の助かる場所は,いま,ここをのけたら外にはないというのが平生業成のこころです。わが胸が大丈夫になったから助かるのではない。安心したから助かるのではない。こちらがまちがいないとならねばさびしい私です。しかしみなそういうことに用事がなかったのです。信じたで,聞いたでと腰をおろすのは,六字を眺めものにしているのです。わが胸を当てにするのが自力心です。こちらには用事がなかったのです。聞いて助かろうとするのが私ですが,それは六字がお留守です。
 尼崎のお同行のお母さんは,末代無智の御文章を何遍も拝読してみて,気が付いたことには,御文章のどのお言葉もみな私に出来ないことばかりでした。私にできないことばかりをお示し下さるということは,裏側から言えば,全部が全部みな如来のおはたらきであることを知らせんがためのものでしたと言うて泣いていられたということです。
 たずねかえしのできん法,ことわりのきかん法でありながら,ことわりずめの私です。出る息,入るを待たないとはお聞かせいただいているのに何ともないのがこいつです。法蔵菩薩の兆載永劫のご苦労は誰のためだったのか…。聞いているようでちっとも聞いていない。今死んだらどうなるか。信じるまでは助からんが,信じたら助かると思っているのがこいつです。この心は法を聞くきっかけにはなりましょうが,大きな間違いです。
 実際は助ける法が先に来ていたのです。こちらのきづかいは手遅れです。こちらが負けです。その手遅れの法,その負けの法に遇わされるのです。こちらが確かなものになることのいらない法に遇うのです。先手のお助けとはこのことです。聞いたこと,信じたことが間に合うように思うてきばっていたこいつです。それが手を出して聞いていたのでした。背中を向けていたのです。しかしこちらが手遅れです。手遅れならば,どれほどやっても無駄です。その法が耳から入り,出るところがないから口から出るのです。それが御名を呼ぶ称名です。
 

弥陀の名号(加茂仰順師)より16

  1. 2016/05/25(水) 19:48:33_
  2. 仏法
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 如来様はこの私を救わねば生きてゆけないのです。それですから,お浄土にあられる如来様が私の身の中へ飛び込んできて,私がお浄土まで生きぬくいのちとなって下さるのがお念仏です。浄土にある親様が,この私の受け取りやすい,称え易いお念仏となって,私の人生に入り込まれてきます。そしてそれがお浄土に生まれるのです。心には信心となり,口には念仏となり,姿には拝む手となり,ざんきの姿となって,私を浄土まで生き抜かせる力が如来様であり,それがお念仏であります。
 このゆえに,南無阿弥陀仏に救われるということは,お浄土の如来が,私が浄土へ参る姿となって,信心となって,私の身の中に生きて働くすがたがお念仏なのです。だからこのお念仏は,私の願いや祈りではなく,私を救おうとする如来様が,私の身の中に,私のお浄土まで生き抜くいのちとなって,生きて働くのがお念仏です。
 教えは山ほどあっても,またそれが尊いものであっても,この私の本当に救われる教えというのはこれよりほかにはありません。相対的な世界の私の身の中に,絶対的な如来の力があらわれてきていて下さるのです。浅ましい私のこの身の中へ,尊い如来様がとびこんできて救うて下さるのです。~要するにこのお念仏は如来のあらわれたすがたです。これを人間の中からのあらわれであると思うたのは大きな間違いで,拝む手も,称える口も,信ずる心も,これみな名号のはたらきです。如来様はどこにいますのかといえば,この称えるお念仏が如来様です。

弥陀の名号(加茂仰順師)より15

  1. 2016/04/24(日) 15:23:44_
  2. 仏法
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 如来様は,この私を救わねば生きてゆけないのです。それですから,お浄土にあられる如来様が,私の身の中へとびこんできて,私がお浄土まで生きぬくいのちとなって下さるのがお念仏です。浄土にある親様が,この私のうけとりやすい,称え易いお念仏となって,私の人生に入り込まれてきます。そしてそれがお浄土に生まれるのです。心には信心となり,口には念仏となり,姿には拝む手となり,ざんきの姿となって,私を浄土まで生き抜かせる力が如来様であり,それがお念仏であります。
 このゆえに,南無阿弥陀仏に救われるということは,お浄土の如来が,私が浄土へ参る姿となって,信心となって,私の身の中に生きてはたらくすがたがお念仏なのであります。だから,このお念仏は,私の願いや祈りではなく,私を救おうとする如来様が,私の身の中に,私のお浄土まで生きぬくいのちとなって,生きてはたらくのがお念仏です。教えは山ほどあっても,またそれが尊いものであっても,この私の本当に救われる教えというのはこれよりほかにはありません。相対的な世界の私の身の中に,絶対的な如来の力があらわれてきていて下さるのです。浅ましい私のこの身の中へ,尊い如来様がとびこんできて救うてくださるのです。その救いも,手品のようなことではなく,因果の法則によって,お浄土まで生き抜くいのちとなって,如来様があらわれて下さるのです。お浄土まで生き抜くいのちとなって,生きてはたらいて下さるそれがお念仏です。要するにこのお念仏は如来のあらわれたすがたです。これを人間の中からのあらわれであると思うたのは大きな間違いで,拝む手も,称える口も,信ずる心も,これみな名号のはたらきです。如来はどこにいますのかと云えば,この称えるお念仏が如来様です。またこの信心が如来様です。これを示したのが如来御回向ということであります。


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プロフィール

アグリ長八

Author:アグリ長八
私の家は先祖代々農業を営んできた。私もまた受け継いだ田畑を守り、地域の先輩や仲間と共に米作りに勤しんでいる。曽祖父の名前が長八だったからであろう、物心ついた時から「ちょうはっつぁん」と呼ばれていたのを覚えている。我が家の仏壇には手垢のついたお聖教(正信偈や御文章)がたくさんある。仏縁の深い家に生まれたことをありがたく思っている。ふとしたきっかけでお寺参りをするようになり、仏様のみ教えによってお育てを頂いている。お育てにあずかりながら日々心の中に湧き出てくる私なりの味わいを記していきたい。

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